今週の本棚:養老孟司・評 『見る--眼の誕生は…』=サイモン・イングス著

今週の本棚:養老孟司・評 『見る--眼の誕生は…』=サイモン・イングス著

 ◇『見る--眼の誕生はわたしたちをどう変えたか』
 (早川書房・2730円)

 ◇目的しか見えない現代人が見えてくる
 久しぶりに時間をかけて考える本を読んだ。とくにむずかしいことが書いてあるわけではない。見ることと、眼(め)について、さまざまな科学的な話題が紹介してあるだけである。著者はロンドン在住のサイエンス・ライターで、眼の専門家ではない。

 専門家が書いた本でないから、素人にもわかりやすい。でも扱われていることが、正解があるとは限らない話題だから、読者としては思わずあれこれ考えてしまう。そういう意味では、確実な知識だけ伝えようとする教科書とは違って、逆にいい勉強になると思う。見ることに関心のある人なら、読んで損をしたとは思わないはずである。

 視覚を取り扱った一般向けの本には、専門家の書いたものを含めて、定評のあるものがすでにいくつかある。その中で、本書は扱う範囲が広いという特徴がある。きわめて多面的な視点から、眼と視覚についてのさまざまな話題を取り上げている。私自身も知らなかったことがあり、たいへん参考になった。そのかわり一つの話題を長く論じることがない。だから読者は考えるのである。

 前半は動物の眼を含めた、進化学的、比較解剖学的な話題である。たとえばダーウィンが難問とした眼の進化について、スウェーデンの二人の科学者の計算機によるシミュレーションが紹介されている。これによると、平たい上皮から陥凹した眼が自然に発生するまでに、ほぼ四十万世代だった。年に一回、世代交代をするとして、五十万年足らずで眼が進化することになる。これでは化石に証拠が残らない。むろんこの結論が「正しい」とは一概にいえない。計算の前提があるからである。そういう見方もできるか、と思うべきであろう。

 後半は視覚の生理学で、「見るとはどういうことか」を論じる。最近の心理学や脳科学の結果を要領よく伝えている。さらに研究史がていねいに紹介されているので、わかりやすい。過去の研究者の仕事を具体的に説明してくれるから、問題がわかりやすくなる。

 いまでは子どもたちに実験で科学を教えようという工夫がいろいろなされている。この本を読みながら、私にもいくつかアイディアが浮かんだ。昔の科学者が行った基本的な実験を、そのまま繰り返してもいい。当時は特別な道具がなかったから、そこらにあるもので間に合わせた。それならいまでもできるはずである。光の回折から色彩の問題まで、ニュートンの時代の実験なら、簡単にできる。でも気の利いた先生や生徒なら、「そんなことはわかっている」というであろう。どうもそこに問題があるような気がする。

 科学離れがいわれるが、それはじつはわれわれの日常と関係している。学校のカリキュラムの問題ではない。インターネットは既知のすべてを情報化し、それを参照したほうが考えるより早いという時代になった。だから考えないので、生きものはふつう、ムダなことはしなくなるのである。

 だれでも毎日、いつでもなにかを「見ている」。でもいったい自分がなにを見ているのか、意識したことがあるだろうか。テレビを見るとか、メールを見るとか、見ることはもっぱら目的行動になった。その結果、人は意外なことに、「ものを見なくなった」のである。本書の最後は「見えないゴリラ」という章である。これは有名な実験である。白と黒の二チームが入り乱れてバスケットの練習をしている。そういう短いビデオがある。被験者にこれを見せて、たとえば「白チームは何度パスをしますか」という課題を与える。ほとんどの被験者は見終わって「三回です」と正解する。「ほかになにか見えませんでしたか」とさらに訊(き)く。やはりほとんどの人が「いいえ」とか、「べつに」とか答える。しかしこのビデオでは、画面の中央を、ゴリラのぬいぐるみを着た人がゆっくりと横切るのである。見ている人に、それはなんと見えていない。

 私たちは「見る」ことのような日常的な行為を、当然として受け取るようになった。しかしそれは決して当然ではない。この本を私がていねいに読んでしまったのも、その思いが最近常にあったからである。現代人ほど、決まりきったことを考えることに慣らされた人たちは、歴史上なかったんじゃないだろうか。そんなことを思う。

 動物がどうものを見ているか、いったいその眼がどうなっているのか、それに関心を持つことは、結局は鏡で自分を見ているのである。こうしたことをムダだと思わず、ぜひ関心を持っていただきたいと思う。いったんそうした世界に触れると、世界がどこまでも広がって行くことがわかるであろう。

 来年は第十回生物多様性条約締約国会議が名古屋で開かれる。そのキャンペーンに環境省は苦労している。でもこの本を読んで、生物の眼の多様性を知っただけで、「多様性」という言葉の具体的意味がしっかりと感じとれるはずなのである。(吉田利子・訳)

毎日jp

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